「協同の21世紀」への出発は可能か 

全国大学生協連 岡安 喜三郎


 現在、日本は確実に高齢社会に突入しつつあり、経済活動の上に福祉や環境等々の課題を担うべく21世紀の協同組合が期待を込めて語られている。1990年前後から「21世紀は協同の時代」とか「協同組合の時代」とか言われてきた。

 一方でその頃から、生協の経営のみならず社会的信頼性にも困難が見えてきた。特にこの数年間に起きている不祥事とその処理経過は、レイドロー博士が1980年ICA大会への報告で述べた「協同組合の通ってきた成長と変化の三段階における危機、第一の危機は信頼性の危機、第二の危機は経営の危機、第三の危機は現在の思想的な危機」(「西暦2000年における協同組合」日本協同組合学会訳編、1989年日本経済評論社刊)が日本の生協運動の中で現在同時進行していると写る。レイドロー博士がご存命であったら、今の日本の生協運動をどう洞察するであろうか。

 1999年6月開催の日生協第49回総会議案書には、コープさっぽろ、いずみ市民生協、コープさが等をはじめとする生協の不祥事に関して、以下のような記述がある。「この間、一部の生協においてであるとはいえ、生協の信頼を大きく損ねる不祥事や運営の混乱を生じさせてきました。その根底には、生協の閉鎖的体質や運営のあり方の問題、トップのモラル問題、役職員の日常的な業務執行に対する組合員の不満や不信が存在しているといえます。また、生協の規模に見合った運営の確立の立ち後れや組合員の意識の高まりへの対応が必要になっています。」(「第1章(4)生協の信頼回復と健全な生協運営の確立」より)

 レイドロー博士はさらに以下のように警告していた。「今日、協同組合人の間に、理論や思想を避け、その代わりに『事業を優先する』という強い傾向が存在する。しかし、これは間違った態度である。どのような組織や制度も,まず第一に,人々が信じ,支持したいと思う考えや概念にもとづいて設立されるからである。」(前述の「西暦2000年における協同組合」)

 レイドロー博士の警告を受け止めれば、これだけ急激な変化の中で、21世紀に生き残る価値のある組織であることが、「協同の21世紀」への出発点となると思われる。したがって私は、ステークホルダーから選ばれる事業体、信頼に足る事業体という課題を軸に以下の点を論議したい。

1.新たな出発

2.健全な経営(体)と適法性・倫理性

3.数値・データの信頼性の組織風土

4.組合員、生協職員、理事、三者間の関係

5.知を培う連帯の原点

6.市民の価値観と協同組合の価値

7.生協の姿を投影する機関運営

8.結局は決定的な組合員や生協職員のコミットメント

1.新たな出発

「生協は悪いことはしない、嘘をつかない組織」だった

 「生協は悪いことはしない、嘘をつかない組織」だった。元来そう思われていた。私もそう思っていた。だから、民間企業に就職せず生協に人生を懸けることにした。この気持ちは決して特異なものではなく、生協に働いている多くの職員の気持ちと共通すると確信している。

 もちろん、昔は不正はなかったと言い張るつもりはない。十数年前のある生協での2億円横領事件は大学生協を震撼させたし、今でも恥ずかしながら、職員の横領の類は全国で年に複数件は起きている勘定になるかも知れない。事件の公表をしたかしなかったかは別にして、これらの究明と処理に理事長もしくは専務理事が中心になって、連帯組織と連携をとりつつ当たってきたことは事実である。

 いろんなサービスの不備や能力のなさへの不満があっても、「生協は悪いことはしない、嘘をつかない組織」と思われていたから信頼されていた。端的にこれは「組合員の声活動」を形成していたと言える。

「生協は悪いことのできない、嘘のつけない組織」では決してない

 現在、「生協は悪いことはしない、嘘をつかない組織」と思う人は余りいまい。特に、粉飾決算まがいの操作の挙げ句の経営破綻、常勤役員の生協私物化と利益供与、最も基礎的な食肉銘柄の詐称、等々は「組織ぐるみ」――正確には一部役員・幹部間だが――の様相を呈していると思われて当然であった。であるから端的な生協評価を形成した。問題は、これらが非常識ではあっても特異な事例とは言えないのではないかという世間の疑いの目である。

  生協だって悪いことができてしまうし、嘘だって言えてしまう。それは上記の例で十分に証明している。生協は決して「悪いことのできない、嘘のつけない組織」ではない、この当たり前の事実から組立し直し、新しい信頼関係を構築することが、私たちに課せられた、未来への贈り物ではなかろうか。思えば、これまでの信頼関係は、情報の公開性の視点から見れば「砂上の楼閣」と言える面があったのかも知れない。今は、真の信頼関係を再形成する決定的なチャンスの時期として、前向きにとらえる必要があるだろう。

生協は悪いことをする必要も嘘をつく必要もない

 アメリカの州立コネチカット大学協同組合のプレジデントで、私と同世代のシンプソン氏は、なぜ協同組合に就職したかの問いに「協同組合は顧客に嘘をつかなくて済むから」と明快に答えていた。まさに「生協は悪いことをする必要も嘘をつく必要もない」。役員、幹部を軸としたこの信念こそ生協運動の再形成の核になるものと考える。

2.健全な経営(体)と適法性・倫理性

 経営活動への信頼性の確保のために一般的には、経営数値の健全化、情報開示、機関運営、組合員参加、職員のモラール等々が列挙できる。いわゆる健全な経営(体)である。加えて、それは適法性・倫理性が保持された経営(体)の時に意味をもつと言われれば、誰も否定しえないであろう。

 しかし率直に言って、適法性・倫理性が健全な経営(体)の重要な構成要素であると位置づけた生協運営をしてきたかどうかについては、真摯に顧みる必要がある。もちろん、正直を基本姿勢にしている生協が存在することも知っているが、全国的に見れば「決めれば(何でも)できる」かの如き考えが意識的にせよ無意識にせよ存在していることも否めない、これは閉鎖性の成せる技である。ある生協の理事会決定に冷や汗をかいたこともある。

 生協経営において遵法経営の必要性は実にさまざまな分野にある。一瞥しても、製造物責任関連、食中毒、粉飾、倒産、不当解雇、使い込み、セクハラ、過労死、暴力団関連等々と、一つひとつ問題事例が挙げられるのが怖い。

 この間の不祥事生協を持ち出すまでもなく、現在では経営破綻・経営悪化の銀行や証券会社等が、適法性・倫理性に欠けていたことは周知の事実である。適法性・倫理性に欠けた会社が生き残れないというのが現在進行している日本経済の新しい機軸である。

 こういう流れの中で、以下の指摘は大変参考になると思われる。

 「『会社のため』『利益を上げるため』などの大義名分を掲げることによって、違法行為を平然と行う。これでは『マフィア経営』と変わるところがない。利益を追求するためには違法行為をも恥じず、むしろ違法行為をあえて犯していく。このやり方は暴力団やマフィアの『経営手法』と同じだからだ。」(久保利英明著「違法の経営 遵法の経営」東洋経済新報社1998.4刊より)

 久保利氏はさらに、アメリカの企業の土台としてビジネス・エシックスを紹介されているが、全国大学生協連と関係の深い全米カレッジストア協会(略称NACS)が1983年に発行したマネジメント教本(表題「カレッジ・ブックストア・マネジメントの原則」)の中においても、「倫理性のあるビジネス人が、倫理性に疑問のある人より成功するかどうかはわからない。しかし、倫理性のあるビジネス人の方がより大きな満足感を得る経験をするであろう」と記述し、NACSの「バイイング倫理」を付録の最初に載せ、「バイヤーやマネジャーは、この業界(カレッジストア業界、筆者注)の中で高い倫理水準を育もう」と呼びかけている。

 私の十数年の全国大学生協連役員の経験の中では、このようなことを明示的に強調した覚えはなく、おそらく日本生協連にとっても同様と思われる。例えば、日生協通信教育の教本には「倫理性」とかの項目は明示的には出てこない。

 国際協同組合同盟(ICA)が1995年に採択した「協同組合のアイデンティティに関するICAの声明」(以下、ICAの声明)で掲げた、誠実、公開、社会的責任そして他者への配慮という倫理的価値は、協同組合人ならとして誰でも知っている。生協にとっては当たり前の前提だから敢えて強調もして来なかった、と弁明したくなる心境でもある。しかし、様々な領域にある「当たり前の前提」は往々にして崩れているというのが今の日本の生協の――一部であるにせよ――現実である。「論語読みの論語知らず」と言われないようにしたい。

 このことを直視すれば、遵法性・倫理性においても単なる個々の生協の努力だけではなく、日本生協連の場を生かして全国の生協の総意として社会に公開できる明示的な「生協事業の倫理コード」を設定することが重要と思われる。もちろん、それを宣伝して云々という手の問題ではない。その時には、組合員や生協職員の全国的・地域的連帯が大きな力を発揮するに違いない。

 

3.数値・データの信頼性の組織風土

 適法性・倫理性に関連するもう一つの側面は実態通りの表記という課題である。不祥事の露呈する前に起きている問題は、公開された情報・データの信憑性の無さである。粉飾・架空利益計上、それに準ずる行為は経営が危うくなってきた時、資金調達の行き詰まりを恐れて組織防衛として始まるので、動機は使命感にさえなっている。内部牽制制度は機能を停止している場合が多く、幹事会監査や公認会計士監査さえ「素通り」する。事態は率直にして深刻である。

 経営活動においては、意識的にせよ無意識にせよ経営情報・データの操作はあらゆる段階において技術的に可能である。技術的に可能であるからこそ、チェックの仕組みが求められるのだが、「チェックの目から逃れるのも腕の内」と冗談を言っている場合ではない。では、それはどこから始めるべきか。

 実は、この操作方法、露骨に言えばごまかし方こそ、役員や職員一人ひとりの教養にする必要があると思うのである。特に理事・監事は生協から委任(準委任)を受けた者として「善管注意義務」(民法第644条)を負うことになっているのだから、いっそ「必修科目」にした方がよい。その手口を知ってこそ防止のしかたも分かるというわけである。これらを知るには「事実は小説よりも奇なり」、実際に起きた事例が最も良い教材である。となれば生協の長期的発展を鑑みたとき、この間の粉飾・私物化から始まるさまざまな手口が、不祥事生協の理事会によっていかに公開され真摯に総括されたかにかかっている。

 日常のレベルは職員が最もよく知っている。棚卸しは生きた商品だけを計上しているのか、供給未収金(売掛金)は確実に入金可能なものだけなのか、仕入先からの販売促進費は全部計上されかつ入金されるのか、費用は行動通りの勘定科目で計上されているか、都合の良い勘定科目で計上していないかなど、日常のレベルで数値の信頼性確保を組織の価値観、風土にすべきである。管理者にとって心地よい数値よりも実態の数値を、の価値観である。このことなしに嘘をつく必要のない組織文化を創り上げることはありえない。

 この当たり前の価値観、組織風土、日常の行動規範を、役員が先頭に立ってつくりあげ実践するのが、全ての生協業務活動の基礎であり、第一歩である。

4.組合員、生協職員、理事、三者間の関係

 生協における組合員、生協職員、理事、三者間の信頼性の有無は生協経営にとって決定的である。生協が何をするにあたってもこの三者の信頼関係はことの成否を分けてしまう。いわば組織的執行力を支える核の部分と言える。

 組合員の声活動や一言カード活動の成否は、組合員と生協職員との双方向の信頼関係、普段の業務姿勢に懸かっている。どちらか一方でも相手を信頼していなかったら、この活動は成立する術もない。このことを経営者は十分念頭に入れておくべきである。

 同時に、この活動は単に信頼性の反映だけでなく、信頼性を高めることのできる活動でもある。そのポイントは、聞くという姿勢、必ず回答する、約束は必ず守る、実現のために努力し勉強するという普段の業務姿勢である。逆に、聞く姿勢がない、回答はおろそか、約束はうやむや、できないできないの連発ならば組合員の評価がどうなるかは想像に難くない。

 大学生協の中で組合員の声活動や一言カード活動をすすめてきて実感したことは、全部に答えるというオープンな体質づくり、どんな意見にも答えられるという組織体質と、それを組合員の接点で働く店長が答えられるという業務組織内での政策共有の管理レベルの向上が、他に代えられない将来の財産を作るということであった。おそらく、この声活動は自らの体質、組織体質を変える意思を持たない経営者のもとでは何の健全な有効性も持ちえないことは確かである。

 その点で前述したコネチカット大学協同組合のシンプソン氏の言を紹介したい。「顧客から苦情が来たとき、担当者のミスの場合もあるし、店舗の政策通り対応したから苦情になった場合もある。どちらにしても叱らないことにしている。その顧客が言いたかったこと、店舗に要望したかったことを担当者と話し合い、解決策を担当者から出してもらう。年に一度それらをまとめてマネージャー会議で検討し、次年度のサービス方針を決めていく。」

 加えて、言い得て妙なある会社の信念を一つ。「顧客との関係は従業員との関係をもって始まるという哲学が私たちの信念です。従業員が顧客をどのように扱うかは、従業員自身が経営側からどのように扱われているかを反映します。」(FedEx上級副社長ジム・パーキンス氏、1992年NACS刊「人々を通じて卓越さを達成する〜90年代のリーダーシップの挑戦」より引用)

5.知を培う連帯の原点

 「協同組合は、共同で所有し民主的に管理する事業体を通じ、共通の経済的・社会的・文化的ニーズと願いを満たすために自発的に手を結んだ人々の自治の組織である。」(ICA声明)――これは別に単位の協同組合だけの定義ではなく、連帯活動、連帯組織にも言えるはずである。法的には連合会組織の会員は生協組織であるが、連帯においても人と人とのつながりが基本である。

 「人と人とのつながりが基本の連帯が、金のつながりの連帯に置き換わりつつあるのでは」との指摘を聞いた。ドキッとするが検討する価値がありそうである。事業連帯活動はどうあるべきかの論議だけでなく、特に、経営支援が金銭の支援に収斂されてしまうことに対する警鐘と見ておきたい。

 連帯は元来、人と人との関係を大切にして、自立的に培った知を交流し、学び実践することを原点にして進んできた。初期には、みんな金がなかったからそれしかなかった。しかし、「金がある時」こそこの原点が重要になる。

 いずみ生協で起きた前副理事長の不祥事は主要には内部問題として記述されているが、孤立した存在の中で起こったものでない以上、一方では連帯のあり方にも言及せざるをえない。連帯の名を借りた他生協幹部への過剰接待、贈答品攻勢等の話も入ってくる。話の信憑性を含めて連帯のあり方の教訓として、いずれかの時に明らかにされることを期待したい。

 連帯の原点の重要性はコープさっぽろの再建段階についても言える。いろいろ経緯はあったが基本的には、的確な総合戦略と支援を以てすれば再建できると判断したい。判断はできるのだが、あまりにも重い荷を背負っている。

 経営改革に即効薬はないと言われて久しい。経営再建やその支援は中途半端な「秘伝の伝授」では達成しえないし、生協の所属するコミュニティの中での価値を認められた評価なしにはまた再建そのものが頓挫しかねない。

 「密着型知識(Embedded Knowledge)はその本質上アクセスしにくいものなので、移動型知識(MigratoryKnowledge)とは異なるチャレンジを提起する。他企業の活動に関する本を一冊読んだり、その企業のマネジャーを一人引き抜いたりするだけでは、自社が求めている知識を得ることはできない。」("TheKnowledge Link", J. L. Badaracco, Jr. 和訳「知識の連鎖」ダイヤモンド社1991年刊)

「自社にとって不可欠な資源、中核能力、鍵となる技術を自社がコントロールしていないとしたら、そこで働くマネジャーは軽率な火遊びをしているようなものである」(同上)

6.市民の価値観と協同組合の価値

 ICAの声明は「価値」の項で「協同組合は、自助、自己責任、民主主義、平等、公正そして連帯の価値を基礎とする。それぞれの創設者の伝統を引き継ぎ、協同組合の組合員は、誠実、公開、社会的責任そして他者への配慮という倫理的価値を信条とする。」と高らかに謳い上げている。もちろん、この声明を以て協同組合はこうだと実態として言い切るのは拙速であるし皮相な考えであるが、こういう実態を作り上げるプロセスこそが協同組合の存在意味そのものであろう。

 協同組合の価値の源泉は協同組合組織の中にあるわけではない。その源泉は、人が生きること、人と人との関係、社会との関わり、世界との関わりで、こうありたいという多くの人々の思いや願いである。これらに真摯である協同組合である限り、協同組合の価値を多くの人たちが認めるのではなかろうか。多くの人たちがそうだと感じる協同組合の基本的価値は、協同組合固有のものではないし、ましてや具体的な一つの生協が独占できるものでもない。別の言い方をすれば、協同組合組織は組合員の財産であるが協同組合制度は国民の財産である、と言うことができる。

 現状の生協の仕組みをガバナンスの視野を広げて見直してみよう。この間の不祥事生協の存在する地域は市民生協のエリア分割が成立して、一地域一生協になっていることに共通点がある。加えて地域生協間の関係には自立と連帯の代わりに、「主権」「内政不干渉」なる言葉がよく聞かれる。さしずめ生協のガバナンスには「領地を保証されたモナーキー」が存在しうる様相を呈している。拙速は避けたいがこの点からの幹部の腐敗の蓋然性、必然性の論議は避けられないと思われる。

 念のために言えば、大学生協の場合も理屈上は似たような構図があるが、紙面の都合上、規模の面、大学というコミュニティの性格と大学構成員の見識の中から別の展開が可能であるとだけ指摘しておきたい。

 さらによく言われる「生協がつぶれたら二度と立ち直れない、生協の火を絶やすな」について市民的視点から見てみよう。はっきり言って、株式会社だけ倒産して、生協は倒産しないなどということはありえない。生協だってつぶれることがある、そして、いわゆるダメな生協はつぶれる。これが自己責任の一つの結末であろう。その時、過去の責任を負う必要のない人たちが、その地で生協を欲したときには新生協を設立することがある。これが歴史観でもある。そして新生協を設立できる可能性を生協運動としては残さなければならない。これは協同組合制度は国民の財産であるという点の社会的責任である。

 問題は、いわば「ダメな生協」という論点である。経営者の主観的評価の時代ではなくなったので、その評価は前述の健全な経営(体)と同様、主に経営当事者と言うよりステークホルダー(地域社会、銀行や取引先、連帯組織など、より論点を鮮明にするには組合員と生協職員を含める)が握っていることになる。それは連帯のあり方にも関連し、考え方としては「護送船団方式」の枠内かその転換かについて大論議が必要になる問題でもある。

7.生協の姿を投影する機関運営

 機関運営は業務活動と同様、生協のめざす方向を見える形で現実化する重要な機能である。健全な機関運営は健全な経営(体)の一部をなす。健全な機関運営なしには健全な経営(体)も実現しないし、組合員の生活ビジョンを実現する生協にもなり得ない。

 機関運営にとって、形式に定められた運営は重要であり民主的でさえある。要するに、定款・諸規約、諸規則類が明示されていて、それに則って運営することが決定的である。何を提案し、何を決めたかに焦点を定めれば、その方が明瞭な運営であるといえる。運営がギクシャクする原因のほとんどは、形式からの逸脱、執行部の専断、理事への情報不開示、決定の不明瞭性であると言ってよい。

 本来、経営破綻や不祥事の場合、その原因究明の中で元理事(決裁当時の理事)の責任は免れ得ないのであるが、運営の基本が規定されてなく議事録も曖昧な場合は、形式からの逸脱、執行部の専断追求以前に個々の決裁について、外部からはもとより組合員にとって個々の理事の責任も問いようがないという事態も起きてくる。

 ということなので、機関運営が明示的に行われているかに留まらず、そのための規約・規則類が組合員の市民的権利の視点、理事に委任(準委任)した内容明記の視点、理事の責任から必要な権限発生からの視点で整備されているか、規則に基づいた決定の諸議決書が保存されているか、等を検証することが必要であろう。

 これらについては日本生協連が専務理事名で「生協における健全な機関運営の確立に向けて(案)」(略称:生協の機関運営ガイドライン)を提起しているので、日本生協連を含めて各生協が実態との比較・検証を行い、改善すべきところは改善していくことが当面求められていると言える。 

 そこから、機関運営とは「形式知」(野中郁次郎氏)を「形式的に」確認する作業であると誤解したら、それは大間違いであろう。「暗黙知」の存在を認識せずに、「形式知」だけを追って満足していれば、同じ過ちを何度となく繰り返えすのではないか。「なぜこの形式、規定が必要なのか」を問うだけでも、形式情報以外の様々な意味情報を把握することになる。

 そもそも理事会審議には、提案の理由・背景だけではなく、法制度・規定の枠組み・制約からの決裁の妥当性の審議が必須である。社会性・オープン性を持った判断の基本要件となろう。その際、生協活動に関与する学識経験者や大学教員の役割は極めて重要である。

 さらに、理事会が議題の決裁する時なのか、方針決定の時なのかによって「暗黙知」の取り込み方が大きく変化するはずである。

8.結局は決定的な組合員と生協職員のコミットメント

 生協の経営の抜本的な改革には、理事・幹部の奮闘はもとより、組合員と生協職員のコミットメント(積極的関与)が決定的である時代になっている。生協再建にとっても同様であることは言うまでもない。経営の実態数値の悪い生協は、そのビジョン(政策)適合性や技術力の評価だけではなく、先ず以て役職員の不団結の有無、組合員・生協職員・理事三者間の信頼性の有無を検証してみる価値がある。要するに生協の組織的執行力を支える核の部分だからである。

 ドイツのナールブルク大学ハンス・H・ミュンクナー教授は、コープさっぽろに匹敵する規模のドルトムント生協の倒産の事例を分析し、コーポレート・ガバナンス改善のための提言をした。氏は報告の中で、「ビジョンが無いこと、経営陣が将来進むべき方向感の欠如、困難に際しての対処能力の欠如は、変化する環境や協同組合の発展にとって不利と思われる状況に直面する多くの協同組合を脅かしている。重要な問題は、協同組合におけるガバナンスの問題だけでなく、現代における協同組合の存在理由の問題である。それは明確な特性と独自のコーポレート・アイデンティティの欠如である。」(生協総研レポートNo.22「ドイツとイタリアの協同組合のガバナンス」p.9)との指摘をしている。

 ビジョンは組織の生き様を示すもの、将来進むべき方向感をもって日常活動をすすめる心的物的推進力である。従って策定してもそれは決して神棚に奉るものでもなく、文書だけで生協の良さを証明するものでもない。ビジョンは日常性の中にあり、しかも生協役職員一人ひとりの中に息づいているものと連動していなければならない。

 コミットメントとは決して上からの命令に対する服従度合いを測るものではない。人格を尊重された個人が、自らの能力を生かしてみよう、能力を伸ばしてみよう、一人ひとりの組合員の社会的・経済的・文化的な関心を実現するために努力してみようという思いを持って、生協の方向感と実際の運営が自分とかみ合っていると感じたとき、素直なコミットメントが生まれるのでないか。

 この生協の方向感と実際の運営という点で生協がどういう組織文化を持っているかは決定的でもある。もっとも、「組織文化・企業文化」という場合、企業的市民権、メセナの方に行ってしまうと、どうも怪しくなると思えてならない。組織文化とは人の集合体の活動には必然的にある種の文化が形成されるのだということを企業活動に適用した概念で十分だと思われる。それは企業全体の職員の共同行動を指導・支配するものとして、企業哲学、企業精神、経営理念、目的性、価値体系、歴史的伝統、組織風土、行動規範等を包括する。その意味で組織文化を検証することは決定的である。

 世界の協同組合は1995年9月のICA大会において、協同組合のアイデンティティに関する声明を採択した。それはレイドロー博士の問題提起に始まり、マルコス会長(当時)の4つの倫理性の提起、ベーク氏のICA東京大会への報告を経て策定された。日本の協同組合も、その策定に向けて積極的な役割を果たしたはずである。これを言葉としてのみ理解するのではなく、日本の文化・風土と組み合わせて積極的に適用させること、これが生協人の社会的責任であり、未来への責任ではなかろうか。これこそ私のコミットメントそのものである。


「生協総研レポート No.23」収録(1999.07.20発行)

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