大学生協の21世紀ビジョンと生協経営の原点

補.アジアとの協同、アジアから学ぶ
1998.11 岡安喜三郎

 はじめに

 1998年4月末現在、全国大学生活協同組合連合会(以下大学生協連)に加入する大学生協は215会員(10の事業連合をふくむ)、組合員数は130万人を超え(ちなみに、1985年には158会員90万人)、4年制大学の30%、国立大学の70%に存在し、日本の高等教育機関の学生・大学院学生、教職員の40%超が組合員になっている。個別に見れば、大学生協のあるキャンパスでは9割ほどの大学構成員が組合員になっている。

 ほとんどの大学生協連会員の事業活動は、各地域毎に連合会形態の事業連合を結成し、それとの業務委託契約による事業連帯活動として展開されているのが特徴である。各大学生協には商品部という組織は基本的にない、経理機能も事業連合に委託している。

 既に1992年の18歳人口のピークも過ぎ、18歳〜23歳人口の急減期を迎え、大学自身が生き残りをかけた様々な取り組みをすすめている。その中で、大学生協の設立が毎年数大学で進んでいることは、大学生協の果たす役割への期待が高まっていることを示していると言えよう。

 全国の大学生協は、1994年12月の大学生協連全国総会にて、「21世紀へむけた大学生協のビジョンとアクションプラン」を採択し、大学生協の社会的使命を明らかにした活動をすすめているが、大学生協の経営自体もきびしい局面を迎えていることを鑑み、あらためて大学生協経営の原点を探ってみたい。

1.先見の21世紀委員会答申

 「21世紀ビジョン」の策定に先立ち、大学生協連理事会は大内会長を座長とし、大学学長、会社役員など各界の委員からなる「21世紀委員会」を立ち上げ、21世紀を見通した上で、大学生協が直面するであろう主要な問題を抽出し、大学生協のあり方を解明する諮問を行った。

 1992年の11月の同委員会答申は、「社会経済情勢と大学生協の課題」として、?@経済成長の鈍化、政治経済の不安定化、国際競争力の低下、国際経済摩擦の拡大、エネルギー・食料などの逼迫、?A環境問題の重大化、?B高齢社会化の進展等、?C国際化(国際交流)の進展、?D情報化、コンピュータリゼイションの進展、の5点を指摘している。

 また、「大学の変化と大学生協の課題」として、?@大学(短大、専門学校、各種学校等を含む)の多様化:学部教育のリベラル・ア−ツ化、大学院の分化、各種学校の拡大とセカンド・スク−ル化等、?A大学院の研究の多元化と院生の多様化、?B組合員のニ−ズの多様化、?Cキャンパスの多様化、大学経営の多様化、の4点を指摘している。

 答申は、これらの指摘の上に、「大学生協の在り方」を9項目提起しているが、ここでは、特に以下の点を留意しておきたい。

 「このような状況のもとで大学生協に期待されることは、従来のいわば教育補助的機能から一歩踏み込んで、大学との協力関係を深めつつ積極的に社会人形成のための教育機能への貢献と活動とを展開していくことであろう。」

 「活動をすすめるうえで重要なのは協同組合間連帯である。環境問題に限らず、上述した高齢社会化への対応を考えればこのことの重要性は一層明らかになる。」

 「一見相反するこの二つの命題(民主化と効率化、筆者注)は、一面的に対立するものとして理解されるべきではないし、大学生協のこれまでの事業活動において、もし対立的にとらえられることがあったとすれば、この両者をつなぐ運動が不十分であり、そのために協同組合における『一体感の喪失』が生じていたことが反省されるべきであろう。」

 「組合員の各層との間に十分な意志疎通をはかりつつ、専門的立場から組合の日常的な運営を最善の路線に導いていくこと、そして民主化と効率化の両立という困難な課題を日々に解決していくことは、専務理事、店長以下全専従職員の任務である。」

 

2.経営観の転換を図る21世紀ビジョン

 共有・共感できるビジョンの必要性

 先のように21世紀委員会答申は、21世紀に向けて社会と大学がダイナミックに転換していくことを指摘し、重要な留意点を提起した。これらに対し、具体的にどの様な活動を推進すべきか? 「21世紀ビジョン」は、この模索の中から経営観の転換を図ることなしに、21世紀に価値ある大学生協になれないとの認識と決意の中から策定された。

 第一に、生協役職員の奮闘は勿論としても、いわゆる内部努力だけでは現在の変化の中で存在感を失いかねないこと。したがって、生協に関心を持つ多くの人たちの積極的関与(コミットメント)をもたらす生協自らの将来構想、ビジョンが必要であること。それを表明し、大学生協役職員・組合員のみならず、大学生協に関係するすべての人々の共感を得る活動が大学生協の発展を確実にすること。

 第二に、環境問題や高齢社会の進展、情報社会の進展などが、学生や教職員の生活意識、生活の有り様に着実に影響を及ぼし、生活要求や関心も変わっていること。したがって、変化に対し真摯に着実に対応することが日常活動として大切であること。その時、活動の方向性が見い出せる鮮明なビジョンの存在が有効であること。

 第三に、大切なのは、役職員自身が変化することであり、組織が変化することでもあること。『ほどほどの大学生協をもとめるのか、価値ある大学生協をもとめるのか』で、十年後、二十年後の大学生協が大きく変わってしまう時代にいることを胆に銘じる必要があること。

 つまり、「ビジョン」は、生協役職員だけが共有するのではなく、より多くの人たちの共感できるビジョンでなければならないわけである。

 経営観の転換1、“ビジョン駆動型”生協経営へ

 生協経営の目的は、生協の目的に外ならない。さまざまな生活ビジョンを自ら持っている組合員が自らの生活ビジョンを実現するために協同している中から、生協のビジョンが作成される。生協のビジョンは組合員のビジョンであることに、その意味がある。

 大学生協連で1995年に組織した大学生協経営評価基準策定委員会は同年11月に「大学生協自らのビジョンの実現こそ大学生協経営の目的」と明記した答申を出した。同委員会は、教員の委員からの社会的な注目を浴びている企業の事例研究報告、第一線の経営幹部(シャープ役員)を招聘した研究会の開催、経営行動をテーマにした企業幹部(前川製作所役員)の講演会、等々を通じて今求められる大学生協の経営評価とその基準について検討した。

 ビジョンは生協の役職員だけが、ましてや経営幹部だけが実感していても何の意味も持たないことはもはや明瞭である。生協職員組織においてもビジョンを共に実現する意欲と行動を経営活動の原動力とする“ビジョン駆動型”を、旧来の「指示命令、報告」の“コマンド駆動型”に代わって進めようというものである。

 経営観の転換2、ステークホルダーとの関係づくり

 大学生協は様々な人たちとの関連の中に存在し、生協事業は組合員や大学関係者、取引先、生協職員、連帯組織など、さまざまに関わりを持つ人々やグループ(すなわちステークホルダー)に支えられてきた。

 80年代前半に全国に拡がった「組合員の声(一言カード)」活動は、組合員と店舗との積極的関係をつくる大学生協の原点を具体的に示す活動であるが、その上に立って、ステークホルダーとの積極的な関係づくりが21世紀の大学生協の活動を保障すると認識している。

 これらの人々やグループは、関わり方の違いによって、生協への意見も異なれば視点も異なることは言うまでもない。だからこそ、これらの人たちを生協により多くの視点を提供してくれる、見えてない何かに気づかせてくれる人たちであると位置づけられるか否かが、すなわち、ステークホルダーとの新たな関係をつくり出す意欲をもって行動するか否かが、おそらく今後の生協の社会的存在を決定的づけることになろう。

 この関係づくりは、経営資源の活用場面で明瞭になる。旧来、経営者はより多くの経営資源を活用するためには、それを所有ないし支配する動機にかられたが、本来、ステークホルダーはさまざまな経営資源を所有していて、その処分はステークホルダー自身の意思である。実は生協職員との関係もその通りである。すなわち、ステークホルダーとの関係性が活用できる経営資源の質と量を決定づけることになる。

3.「小さな全体」と連帯活動

 大学生協は、地域生協や市中小売業より小さな事業体が一般的である。全国的に見て大学生協連会員の約三分の二が年間事業高10億円未満である。それは大学自体の規模、キャンパス人口などに規定されている。小さいキャンパスでの小規模店舗の業務展開には商品在庫ひとつとって見ても、一定の困難性がついてまわっているのが現実である。

 しかし、大学そのものは規模の大小で各々の社会的貢献が変わるわけではないとの認識を持っている。社会や大学の変化が激しければ、学生や教職員の生協への要望も既存の事業範囲を前提としない。また、先に述べたとおり、大学生協のビジョンも組合員のビジョンである限り、店舗の規模の制約を受けることはないはすである。

 したがって、定型的なサービスを超えた当意即妙のサービスを組織的に実現することを想定した「小規模店舗での大きな貢献(サービス)」が21世紀に向けた大学生協の戦略的挑戦課題として位置づいた。しかも、この課題は小規模生協だけのものではなく、全ての会員生協、事業連合、そして大学生協連の課題である。

 1995年12月の大学生協連・全国的事業連帯のデザイン検討委員会答申は、大学生協の店舗を「生協全体を表現する『小さな全体』」と位置づけようと提起した。この言葉自体は多義性に富んではいるが、これには大きく三つの意味があると認識している。

 第一に、それは、1982年の大学生協連第26回総会で位置づけた、店舗の4つの場(組合員が協同して生活要求を実現する場、理事会が事業政策を執行する場、生協職員が生活し成長する場、生協経営を支える場)としての活動をベースにして、この間の事業連帯活動の発展、情報ネットワークの発展を組み込んだ位置づけであるということ。

 第二に、「事業連帯の力は組合員の利用の場面(通常は店舗)に生かされなければ意味がない、何のための生協の事業連帯か」という組織のあり方の原点を常に見直すことの出来る力を持っていること。これは、各事業所、事業連帯組織を経営資産のネットワークとして再構成し、それを店舗が活用するという新たな事業連帯の段階を展望できるものである。

 第三に、ビジョンを持った「小さな全体」への挑戦は生協職員の意欲と成長を育むとともに、意欲と成長によって組合員の積極的関与を引き出し、「小さな全体」の実態をつくるということ。必要に応じて他の事業所と協力・協同することがさらに充実した実態をつくることになる。

 店舗は、組合員にとっては自らの要求や願いを実現し、生協職員にとっては組合員の要求や願いを実現できる、小さくとも大学生協全体の力が生きる「小さな全体」として位置づけが出来るし、こんごの大学生協の存続と発展は、この「小さな全体」としての活動が出来るかどうかにかかっていると言えよう。

4.地域/全国センター構想

 地域センター、全国センター構想は「21世紀ビジョン」の策定(1994年12月)時に、地連およびその運営を会員間の連帯活動の要として重視し、地域センターとして強化することを提起したことにさかのぼる。その後、地連は組織活動、事業連合は事業活動と分離した地域連帯を、いわば「統合」し、組合員の利用条件を抜本的に改善するために、地域センターを確立することを1996年12月の全国大学生協連総会で確認した。

 なぜ、このような検討をすすめてきたのか? 1996年10月の大学生協連・連帯活動強化推進委員会答申では、「21ビジョンが提起する連帯活動の一層の活性化のために」に加えて、以下の点を指摘している。

「現在、全国の少なくない会員生協で、組合員の利用が思うように伸張せず、経営の困難を増している実態が報告されています。これらの会員生協では、困難の打開を求めて全国の貴重な経験を学ぼうと日々努力を重ねています。一方で、運営の改善と工夫により組合員の支持を高めている実例も報告されています。」

「また、会員生協から寄せられる声には、事業活動の場面における各地事業連合と大学生協連との活動の2重性や、そのことによる会員生協でのサービスのしにくさに関する意見が少なからず存在します。連帯活動への期待は、先ずこうした現状の煩雑さやある種の官僚主義的な組織のあり方への不満として表明されています。」

「組合員が日々集う店舗の活動が、最も大切な情報として集約される、各地域の現状に即した連帯活動。また、集約した情報により、新しい政策を提起し続けられる地域密着型の連帯組織。そして、事業連合−地連−全国連合会のネットワークによって活動を充実する連帯構造。これらのことを念頭に、連帯活動の改革を図ることが急務であると考えます。」

 1998年10月現在、地域/全国センターの構築は最後のつめに入っている。この構築の目的は、会員のビジョンを実現するため、事業経営の現状を打開するため、ともに奮闘するパートナーとしての連帯組織づくりであるとともに、会員間連帯活動の革新に貢献することにある。

 この地域/全国センターの構築が、21世紀ビジョンを策定し、さまざまな革新を進めてきた活動の組織的結節点であると同時に、21世紀への新たな連帯活動の出発点にすべきと決意している。

補.アジアとの協同、アジアから学ぶ

 大学生協の国際活動はかなり古い歴史を持っている。しかしここでは国際活動全般を述べるのが目的ではなく、アジアの協同組合、特に大学の協同組合との交流に絞って述べるのを目的としたい。これらの交流の進行にあたっては、過去の日本が犯した過ち(併合や侵略、殺戮など)が、その国の人たちの深い心の傷になっていること、そしてその国の協同組合人がこのことを乗り越えて日本との連帯の活動に参加していることは忘れてはならない。

 交流のはじまり

 大学生協連の協同組合としての交流は、1995年8月のICA東南アジアセミナー大学生協コースの開催(大学生協渋谷会館)に先だって、1994年5月に、当時の大学生協連専務理事の高橋晴雄氏(現ちばコープ理事長)と早稲田大学生協専務理事の小林正美氏(現大学生協連専務理事)が東南アジア各国の調査にまわったことが最初である。このICAセミナー大学コースに参加した人たちの多くは大学生協から去ってはいるが、フィリピンのクリマコさんはその頃からのつき合いである。

 その1年後、筆者はICAアジア太平洋生協委員会の委員としてシンガポールの会議から参加するようになった。

 一連の大学生協紹介セミナー

 1989年からタイやフィリピン、インド、インドネシア、マレーシア等でICA主催の「日本の大学生協オリエンテーションセミナー」を、ほぼ毎年挙行した。この一連のセミナーの提案者は、当時のICAアジア太平洋支局の生協アドバイザーのプリ氏であった。

 このセミナーは大学生協の国際交流の新しい地平を開くことになったが、やはり大きいのは、その国での交流の開始であろう。インドネシアのKOPINDO(青年協同組合連合会)が会員交流をしていた以外、ほとんどの国では、このセミナーで初めて大学生協関係者が集まったといった状態であった。悩みを出してみるとお互いに共通していることが確認されるセミナーでもあった。

 このセミナーの参加者のためのフォローアップセミナーもそれぞれ開催してきた。最初のタイでのセミナーの終盤に「日本の大学生協を現実に見たい」という要望に沿ったのが始まりである。ただし、条件をつけたのは当然である。

 交流・協力の原則の模索

 上記の国の大学の協同組合は、国の実情に応じて実に特色がある。タイの主要大学の協同組合は学生だけの組織で、教員は顧問で入っているに過ぎない一方で、フィリピン、マレーシアなどは教職員だけが組合員になっているとかである。東南アジアではどちらかというと後者が根強く残っている。

 一連のセミナーでは、日本の大学生協の発展の要因として、その大学の学生、教職員の大多数が組合員になっていること、そういう方針を持っていること、換言すれば、店舗を利用する大学構成員を組合員にすること、そうしなければ私企業の株式会社方式と変わらないものになってしまうこと、さらに、大学協同組合間の連帯活動を強化することが事業の安定化をもたらすことなどを強調した。

 日本の大学生協の今後の協力内容は、その国のアクションプランの方向性と日本の活動方向との接点にあることを説明し、そのためにもアクションプランをつくってもらうことにしてきた。私たちが支援できるのは、貿易でもなければ財政援助でもない、その国の大学生協運動、生協運動の発展に意欲を持った人たちへの励ましだけだからである。

 このことが意外と重要であったことは、その後のアジア太平洋地区の大学生協グループの活動の活性化によって明らかになった。

 ICAアジア太平洋大学生協小委員会の発足

 これらの活動を通じて、1995年12月、シンガポールにおいてICAアジア太平洋大学生協小委員会を発足させた。それまでの日本と各国とのサクランボのような繋がり方を対等のネットワーク型の繋がり方に発展させることが出来た。当初の参加国は、日本、フィリピン、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、インドの7カ国であったが、後に韓国とベトナムの加入を確認した。

 一方で各国の取り組みも一定の前進を示した。

 タイではこの小委員会の発足に先立って、タイ教育機関生協連合会を10会員で発足させ、共同仕入活動を進めている。インドでも、インド大学生協フォーラムは発足した。両国とも、オリエンテーションセミナー後、日本で労働研修した人が中心になって推進したものである。

 フィリピンでは、メトロマニラ生協連が中心になり、全土を網羅したエコーセミナーを数回に渡って巡回開催し、大衆的な開かれた生協組織の啓蒙を続けている。中部のウェスト・ビサヤ大学の協同組合は、2回の総会を経て学生を組合員に迎え入れる定款改正を達成した。

 シンガポールやマレーシアでは、法的な制約がある中で、学生の参加の機会をとしてコープ・クラブを発足させ、学生の会員の拡大を進めている。

 韓国では既に数大学で、日本と同じようなタイプの大学生協が活動している。昨年6月には、韓国生協中央会と同大学生協本部が、日本とシンガポールの大学生協を招聘したセミナーを開き、多くの大学福利厚生担当職員も参加した。

 昨年の11月には、初めて小委員会企画の「キャンパス/ユースセミナー」をシンガポールで開催し、120名以上の参加で、青年の手による2000年ビジョンをまとめ上げた。

 アジアから学ぶ

 大学生協のアジアとの交流の一つの柱として、学生どうしの交流、アジアスタディーツアーを位置づけている。学生委員を中心にタイとフィリピンを訪問し、戦争(平和)と生協をテーマに両国の学生と共に戦争跡の視察、従軍慰安婦だった人たちからの聞き取り、交流を重ねている。

 日本の学生にとって、アジアの学生の活力は大きな刺激になっている。アジアの協同組合との交流は、生協の原点をさまざまな角度から見直す格好の機会であるでるとともに、その活力には大いに学ぶべきところがあると思っている。


「生活協同組合研究」1998年11月号

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