リーダーシップとリヴァーシング・システム |
岡安喜三郎
T.「中間報告」以降 U.トップの暴走は誰が阻止するか V.信頼回復と協同組合の経営観の転換 W. 生協変革の力、その源泉ハ |
◆いずみ生協事件仮処分決定
大阪いずみ市民生協(以下「いずみ生協」)で継続していた元副理事長を中心とした生協財産の私物化・利益供与等の腐敗行為は、1997年5月に三人の生協職員によって告発されることになり、その行為の継続が断たれ、一定の「損害取り戻し」がされた。
腐敗の継続を断ち切らせ、一定の「損害取り戻し」をさせたのは誰か? まず、腐敗の事実を告発し事実を世間に明らかにした三人が挙げられる。そしてこの三人を支援した人たち、いずみ生協内で批判を開始した組合員、日本生協連などが挙げられよう。
彼ら三人がいなければこの事態は永遠に明らかにされなかった可能性が強く、「損害取り戻し」すらおぼつかなかったと言える。告発時点でいずみ生協理事会が「事実無根・虚偽・ねつ造・外部と連んだ生協乗っ取り云々」と言い立て、告発直後の通常総代会を「反対0」で乗り切り、二人を6月10日懲戒解雇、一人を自宅待機として報復した位であるから。
しかしいずみ理事会の逆上した拙速な行動は、日本の生協運動への反逆的挑戦となり、逆に三人の人権問題を守る運動としても心ある人々の中に拡がりを示すこととなった。しかしこの運動はいわゆる民主運動内では奇妙な運動だったかも知れない。おかげで私も、人権問題を人権問題として闘えない運動団体が結構存在していることを知ることとなった。
ともあれ、懲戒解雇を受けた二人は直ちに「地位保全および賃金仮払いの仮処分」の申し立てを大阪地裁堺支部に起こし、2年の歳月を経て、1999年6月30日懲戒解雇無効の仮処分決定を得ることになった。
◆「本件内部告発は正当な行為であった」(地裁決定)
「内部告発」という言葉の響きは決して心地よいものではない。少なくない生協幹部もそう感じたはずである。問題は、内部告発という行為だけを取り上げて、それが不健康か否かなのではなく、内部告発という行為しか事実を関係者に提供できない、その組織に潜在していた不健康さにある。
通常の善良なる市民感覚や人権感覚で運営されている組織なら、だまされることがあっても、だますことはしないし、人を権力的に操作できることに快感を持つリーダーが育つ余地はない。そういう組織には「内部告発」は不要であるし、実際無駄でもある。
いずみ生協事件の場合は、そういう通常の常識的運営でなかったことを社会的に明らかにするために、裁判所の決定を待つしかなったとも言える。以下は大阪地裁堺支部の決定からの引用である。(名前はイニシャルにして引用する)
「内部告発が、公共の利害に関するものであり、その目的が専ら公益を図る目的であった場合には、内部告発にかかる事実が事実に合致するか、真実と信ずるについて相当の理由がある場合には、特段の事情がない限り、右内部告発は、正当な行為と評されるべき」
「本件内部告発をきっかけに、本件内部告発にかかる事項を中心に、債務者内の業務運営・財務会計処理等について一定の改革、改善がされていることをも踏まえれば、本件内部告発は正当な行為であったというべきである」
「債権者Uの資料等の持ち出し行為は、本件内部告発の準備行為というべきであって、本件内部告発と不可分密接な関係にあることからすれば、本件内部告発とその資料の持ち出し行為とを切り離して考えることは相当でないうえ、債権者らが、債権者Uが持ち出し等した資料を本件内部告発の目的以外に悪用したといった事実は認められないことも鑑みると、本件内部告発につき、前記のとおりそれら事実が事実と信ずるについて相当の理由があり、正当な行為であったと認められる本件にあっては、前記の非違行為は認められるにしても、それを理由として債権者Uを懲戒解雇することは、懲戒権の乱用として許されないというべきである」
◆市民感覚と人権感覚
先に述べたように、通常の善良なる市民感覚や人権感覚で運営されている組織なら、だまされることがあっても、だますことはしないし、人を権力的に操作できることに快感を持つリーダーの生まれる余地はない。
「その通り。しかしその程度の水準では経営は失敗する。経営を成功させるにはそれなりの理論と技術がある。心地よい言葉で人を惑わすな」の声も聞こえてきそうである。たしかにその面もあろう。経営幹部の「暴走」を心配する余り、それをチェックするという仕組みだけが「立派」になっても生協の前進が保証されるわけではないのだから。
グローバル市場経済の進行と不況脱出がままならない日本経済の中で売り上げ(供給)の下降の時にどのように勝ち残っていくのか、生協の存在価値をどう高め、組合員の支持を獲得していくか。そういう意味で、今こそリーダーシップが必要な時はないと言える。
◆「牽引車」と「暴走車」の狭間
リーダーには未来を予測し一定の期間内の決断が迫られる。いわゆる予見能力である。運動や経営における時間軸の問題は決定的でもある。決断の正否判断が未来である限り、時には判断の誤りもしよう。逆に、誤りの追及を恐れ、ただ話し合いを続け、何もしない、何も責任をとらない「リーダー」は、その決定的誤り一点を除けば確かに誤りは犯さないかも知れない。「何も誤りを犯さない者は、何もしない者だけである」というロシアの革命家の言葉を思い出す。
リーダーの責任は常にその未来判断の正否によって「評価」され、一般的にはそれがリーダーの大きなストレスとなる。もちろん、ここでは「良くて当たり前、ミスがあればそれだけを追及される」という小役人のはびこる稚拙な風土のことではない。未来を担うリーダーにとっては避けられない、ある面では必要なストレスのことである。
実は、そのストレスによっても時にはリーダーは「牽引車」と「暴走車」の狭間を行き来することになる。もっとも誰でもが行き来するわけでもなく、露払いには「甘え」、太刀には「職権」というものが揃ったときに陥る。いずれにしろ、リーダーであるが故に陥る政策的過ち、そして倫理的・法的過ちをどう克服するかが問題になるが、特に後者の過ちが本テーマである。
◆トップ一人が誤っても組織的誤りには至らない
政治で言えば、たとえ独裁であっても、それは独裁者一人だけでは成立しない、それを自分に有利に使いたい取り巻きと絶対服従の取り巻きが必要である。これは極端な例を引いたが、いずみ生協にしろコープさっぽろ、コープさがにしろ、ある役員(幹部)一人のみに責任を収斂させることにはならない。必ず「協力者」が存在する。
この点が仮にトップ(や一部幹部)が「暴走」しかけても、それを防ぐ重要なヒントを与えていると言えよう。それを;
○常勤役員集団、
○理事会、
○監事、
○生協職員集団、
○総代・生協組合員
○連帯組織、連合会組織
○その他取引先、地域社会等
との関係で明らかにしたい。事業面の諸情報は常勤役員集団に高度に集約されている実態と、定款上の理事会の役割を、他の集団との関係でどう有機的につなげるかを明らかにしなければならない。
◆2つの基本ルール
常勤役員と理事会その他の人々との約束事は2つに収斂できるのではなかろうか。これをその組織運営の基本ルールにしてあれば、組織制度も生き、殆どの暴走は防ぐことができると私は思う。
1.常勤役員は個々人独立してアカウンタビリティ(説明責任)がある
2.トップ自身と常勤役員は内部牽制制度の網の中に自分を入れておく
自己責任として、この点の欠けている常勤役員は、他にどんなに能力があっても社会的責任を負う資質がないものとして判断しうる。社会的責任を負えない常勤役員を持つ組織は悲劇的結末を迎えることとなろう。
理事会は、上記のことを徹底する組織を構築することが本テーマとの関係では最大のポイントであろう。そのことによって、常勤役員集団内部に牽制機能と民主主義的運営が出現する。すなわち、不祥事生協をみれば、トップ一喝ですべてが決まる常勤役員集団の存在は、結局のところ理事会自体の機能が十全に発揮できないことを証明している。
◆説明責任と質問権の存在、その公開性
一方でオープン性を示す説明責任も答責事項であるから、質問・疑問が理事会その他から発せられなければ答える責任はないことになる。ここで質問権の有無が問題になろう。理事は決定に参加する限りにおいて個々人に質問権が付与され、監事は個々人の職務として法や定款に定められている。労働組合は団体交渉権と関連して一定の範囲で団体として持っているとみてよい。
実践的問題は、総代・組合員および生協職員の質問権である。総代・組合員の質問権は何らかの形で定款で制度化することは可能である。現在、地域生協や多くの大学生協で実施されている「一言カード」活動は、運動というレベルにおいて質問権を実体化させていると言えるが、これをを定款等で制度にできるはずである。
「一言カード活動」は単なる苦情処理でもなく、声を聞いているというアリバイ活動でもない。組合員との関係でのオープン制(全意見および回答の公表)、説明責任の日常化が重要なポイントである。それは、生協職員内の情報のオープン制にもつながっている。これは20年にわたる体験で断言できる。
生協職員個々人についても同様に考えたい。生協と労働組合の団体交渉の場において労組員の質問と誠意ある説明が労使慣行になっている生協では、比較的生協職員の質問権を制度化し易いはずである。労働組合も利害関係人としての個々の労組員の質問権を保証するため、新発想で労働協約を提案できるのではなかろうか。ここで全質問および説明の公表というオープン性がまたも決定的である。
連帯組織・連合会組織とその他取引先・地域社会との関係を述べれば、前述のいわば対内的処理(トランザクション)とは趣を異にしている。割り切って言ってしまえば、これらは対外的なディスクロージャーの関係として理事会が責任を持ち、必要に応じて理事長等代表者が説明責任を持つとして良いと思う。端的に言えば常勤役員個々の説明責任は不要となる。
◆例外をつくらない内部牽制制度
トップ自身が「内部牽制制度の網の中に自分を入れておく」ことは極めて大切なことである。金の出し入れに関する決裁基準は大体のところで設けていると思われるが、トップは例外であり、それがトップ足るゆえんだと疑いもせず運営している組織が意外と多いのではなかろうか。特に渉外費等の基準にそれが言える。
トップの決裁機能は原理的に組織内の他の人の(金銭に関わる)組織行動に対してなのであって、自分の組織行動を自分で決裁することは、もはやその時点で思想的に「私物化モード」に入っていると言って差し支えない。そして、「トップは内部牽制制度の例外だ」と思っている組織・経営体(経理部門含む)は、それ自身、トップの私物化行動をそそのかしていることになる。
今回の不祥事だけではなく、過去の不祥事を見ても常にトップは内部牽制の枠外に置いていることに起因している。今後は素直に、トップといえど内部牽制制度の枠内にいるメタ制度(総合制度)を確立すべきである。
ことを検証するには、実は経理部門の「独立性」「自立性」を検証することから始まる。それは上記質問権で十分検証できるであろう。そして、そのことを組織確認することが理事会の責任ということになろう。
このように作り上げた経営組織なら、内部告発という緊急避難行為は起こらないと言えよう。仮に起きたとしても、「内部告発されたのだから何かある(火のないところに煙は立たずの非科学的外挿法)」という風潮にいたずらに振り回されることもなくなるであろう。
◆21世紀の生協づくりの契機に
今まで述べたトップの「暴走」を止める仕組み(リヴァーシング・システム)を別の視点から見ると、それは総代・組合員、生協職員の参加が生協の将来をつくるという確信と同じ方向性を持っていることに気づく。ここに、失敗の教訓から学ぶことによって、信頼を回復し21世紀の生協づくりの契機にする意味があるのではなかろうか。
その内容は第一に、トップ・常勤役員から一般生協職員、総代・組合員が人権や民主主義に関して自律的な市民として自立し、それぞれの技能・能力を生かしながら、社会的目的(ビジョンなど)の一致で協力するという原点が生協組織の中で必要だということである。端的に言えば、協同組合の価値と原則を事業組織内(生協職員、委託業者など)にも生かす挑戦の時期だということである。同時に伝統的経営観の転換も必要であろう。
第二に、説明責任と質問権の際に述べたように、制度自体の公開性・社会性の重要さである。どんなに良い「制度」を作り上げても、極端な話、密室内の運営(一対一の運営含む)なら制度維持も保障されないであろう。すなわち、良い制度とは公開制の中にあることが基本条件である。その証となる一つの制度は、当事者間で一方が必要としたら第三者の関与を認めるルールの確立であろう。第三者は労働組合役員、非常勤理事の場合もあるし、弁護士の場合もあるが、いずれにしろ、その当事者が選択できる方式を採用すべきである。
第三に、これらのことは近年社会的存在の要素として位置づけられている、公開制(disclosure)や透明性(transparency)の問題をも実践的に補完するものと位置づけられる。特に後者の透明性についてはその効果が大であると言える。透明性の根幹をなす意思決定とその過程の公開に、生協に関わる様々な人たちが関与・参加するダイナミズムが位置付いているとき、その生協への信頼と安心が根付き、積極的に関与したい人たちの気持ちを後押しする。そしてその生協が未来を代表するものと誰もが認めるものになるのであろう。
◆伝統的経営観について
信頼の回復とは単に「今後トップが悪さのできないような仕組みを作りました」と宣言することなのだろうか。決してそうではないことは今まで述べてきたとおりである。一つ常勤役員集団と生協職員との(説明責任と質問権の)関係をみても、旧来の経営観のままでは現実的対応はできないであろう。
ここで伝統的な経営手法、経営論とは、「マネジメントは命令や権限、統制(コントロール)に依存するし、重要視されるのは力と権限である。各々の部分や機能は分析可能で、別々の取り扱いが可能。組織は上級の幹部がリードすべきもの。かくして人は組織目的に合うように訓練される、等々」の考え方、およびこれらを根底に置いた一連の業務とそのサイクルを言うことにする。(これらに関する生協陣営内の論点整理は若林靖永氏の「組合員参加と生協事業の革新をめぐって」(生活協同組合研究286、1999年11月)に詳しい。)
もちろん、伝統的経営の個々の手法がすべてが悪いということではない。ただ、総体として現実に合わない、悪い面があるということである。その一例としては職員のコントロールという発想の中に存在する。現場で働く生協職員に誇りと共感を持たない生協役員幹部の存在はそれ自身、その生協の将来の危険な予兆だということを言っておきたい。
ここに極端な例を出そう。それはカルト教団のマインドコントロールの4要素と言われるもので;
環境コントロール=隔離・遮断
行動コントロール=強制・労働
思想コントロール=敵対心
感情コントロール=恐怖心
であるが、これが、「ものが言えない」「職員・組合員の交流に消極的」「他生協から学ばない」等と指摘される事態と一定の類似点を持つとの見方はうがった見方であろうか。
◆経営者にとって「企業は預かりもの」
トップのモラル問題は必ずしも規制的な課題としてのみ存在するわけではない。規制が最優先なら何もしない方がいい。トップのモラルは現実の生協運動から見れば前進方向で位置づけられるものを持っている。
生協に限らず、企業は「預かりもの」という考え方(企業哲学)がある(『経営感覚と大学生協』足利工大生協池浦孝雄理事長(当時)。学協運動130号、1982年11月)。私も当時東大生協の専務理事になったばかりの時であり、大変印象深かったことを思い出す。生協の経営者にとって生協事業組織は、組合員からの預かりもの、社会からの預かりものと言えよう。加えて未来からの預かりものでもある。この預かったものを預けた人たちの満足する方向で経営するのが経営者である。このことを生協にとっては当たり前のことと確認しておきたい。
◆「求心力の源泉」としてのビジョンと参加
1998年の厚生省「生協のあり方検討会」報告書では「生協の中には、組合員の参加意識が薄れるとともに、生協自体の組合員に対する求心力が急速に低下しているものも見られる」との記述が出ている。
夢のない組織、夢を感じない制度には誰も積極的に関与しようとは思わない。そこにビジョンの必要性が生まれる。レイドロー博士も「どのような組織や制度も,まず第一に,人々が信じ,支持したいと思う考えや概念にもとづいて設立される」と言い切っている(1980年ICAモスクワ大会での報告)。
レイドロー博士は同じ報告の中でマルチン・ブーバーの「……商品の共同生産は、個々人の消費のための共同仕入れよりも人々をより強く結びつける。人間は本質的に、消費者としてよりも生産者として活動するとき、はるかに積極的に人々と結びつこうとするものである。」との言を引用し、「もしブーバーの分析が正しいとすれば、消費者協同組合は、たんなる品物の購入を通じてだけでなく、もっと緊密で有機的な方法で組合員と結びつかねばならない」と提言していたことに注目したい。
コープ商品も良いものだから求心力があっただけではなく、その開発過程(生産過程の根幹)へ自分たち、ないし自分たちの仲間が参加しているという実感が生協の魅力を培ってきたと言える。
同様に、組合員も生協職員も「今の生協」に参加するが、それは参加が「未来の生協」づくりになるから意味が生まれる。参加の本質は「可能的世界」(佐伯胖)に加わることである。
◆世界の協同組合とICA大会「排除から包容へ」
昨年秋に開催されたICAケベック大会は、私も参加したが1980年のレイドロー博士の強烈な問題提起に対する実践的回答の報告が相次いだ。同時にそのことはグローバルかの中での協同組合の挑戦を新千年紀に向けて謳いあげることとなった。
ロドリゲスICA会長の挨拶の一部を紹介すると;
「集中の課題は、グローバル化の主要な当然の構成要素です。これらは同じゆりかごから生まれたものであり、一方が他方の結果です。...集中が今日の経済モデルの一方であるならば、他方は排除(exclusion)です。一方における更なる集中は、他方における更なる排除を引き起こしています。大波は常にその後に死を残します。最悪の帰結は失業であります。」
「この種の排除は社会不安を深刻にします。この種の排除は問題を更に更に大きくします。麻薬取引であろうが、テロリズムやゲリラ戦争であろうが、犯罪であろうがです。」
「そこに、協同組合発展の第二の波が、民主主義、そして結果として平和を守るという、素晴らしい機会を協同組合にもたらす理由が存在します。...第1に、協同組合における集中は、排除の結果をもたらしません。逆に、巨大な国際市場にアクセスを求め、同時に、地域の市場をオープンに保つ過程ですべての人を包容します。第2に、協同組合は他のセクターから排除された人々に対して解決策を提供します。」
「協同組合は包容の(inclusive)組織であり、排除の組織ではありません。もちろん、自らのイメージを守るために、協同組合が悪い組合員やリーダー、悪い役員の除外を余儀なくされることは事実です。だがそれは排除ではなく、もみ殻から小麦を選り分けることなのです。」
となる。ICA会長は空虚なことを言っているのか、確かな挑戦を言っているのか。日本の協同組合総体の実状からは想像できない新しい波である。
現在の経営実態、組織実態は過去の実践の結果であり、現在の活動が未来をつくる。マネジメントの神髄は何かと問われれば、私は「変革し続けること」と答えたい。「変革」はもちろん、「し続ける」ことも決定的なキーワードの一つであると確信している。
変革なき企業が衰退していくのと同じく、変革なき協同組合も衰退の道しかない。変革なき経営が未来を保障することがあり得ない以上、変革の力、およびその源泉はどこにあるかを見据えることが経営活動の根幹となろう。
その点で、長い間経営を担当してきた体験から、協同組合経営は以下の要素を変革の源泉としてまとめることができる。
1.ビジョン(みんなが実現したいと思う確かな未来像、ICA声明と連動)
2.技術力(変換する、変化を起こす技術力。技術の応用力)
3.関係性(生協職員など様々な「利害関係者(ステークホルダー)」との信頼関係)
4.リーダーシップ(上記三点をまとめ上げるリーダー)
この1,2,3のどれが欠けても経営活動に不合理が生じる。時間軸で見れば、4の存在が不可欠である。そういう点では4つが協同組合経営の要素となる。
これら総体を推進するリーダーにはマネジメント観の転換が必要となろう。すなわち、マネジメントは命令や権限、コントロールに依存するという伝統的マネジメント観から、マネジメントは影響力、専門的技術、創造性、模範、共創、信頼を通じて存在するという21世紀にふさわしいマネジメント観への転換である。
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