正統的周辺参加論とは
〜96/3/27佐伯胖教授学習会より〜

メモ 岡安喜三郎

(このレジュメの英文もあります)

 最近、学習論の枠組みが大きく変わろうとしている。それは、J・レイヴとE・ウェンガーが90年代に提唱した「正統的周辺参加(Legitimate Peripheral Participation: LPP)」の概念の提唱による(Lave and Wenger, 1991)。
 正統的周辺参加論では、学習というものを「実践の共同体への周辺的参加から十全的参加(full Participation)へ向けての、成員としてのアイデンティティの形成過程」としてとらえる。このことは以下の点で従来の学習観を乗り越えているものである。

 [学習は共同体への参加過程]

(a)学習を個人の頭の中での知的能力や情報処理過程にすべて帰着させることなく、つねに外界や他者、さらに共同体(コミュニティ)との絶えざる相互交渉とみなす。
・より豊かに関係がもてる
・Merging(融合)

(b) 学習者を知識獲得者としてではなく、全人格(whole person)とみなし、学習によって変わるのは獲得される特定の知識や技能ではなく、「一人前になる」というアイデンティティ形成とみなす。
・「可能的世界」に加わる

(c)学習を成立させているのは、記憶、思考、課題解決、スキルの反復練習といった脱文脈化した認知的・技能的作業ではなく、他者とともに行う協同的で、しかも共同体のなかでの「手応え」として価値や意義が創発的に返ってくるような、具体的な実践活動であるとする。
・意味を感じる

(d)学習を実践共同体への参加過程であるとし、そこから、学習者は必然的に新参者同士、古参者ら、さらには熟達者(一人前)らとの権力構造の制約 を受けつつ、それらとのコンフリクトを通しての共同体全体の「再生産(つくりかえ)」と成員間の「置換(世代交代)」をもたらすものであるとする。
・「新参者が」云々のコンフリクトを通じて

(e)学習を動機づけているのは、単純な「外的報酬」でもないし、「好奇心」や「効力感」のような「内在的な(intrinsic)」な動因でもな い。むしろ、学習者が実践共同体に全人格的に「参加」しつつある実感と、「今、ここに」何かしら共有の場が開かれているという予見によって、引き出され展 開されていく実践活動の、社会的関係性そのものにある。
・難しく言えば「自治」/相互作用的←「Empowerment」

(f) したがって、学習をつねに「進める」ものは、予見を可能にする共同体の十全的活動へのアクセスであり、学習者の参加の軌道に即しての、意味のネットワークの広がり、すなわち、「文化的透明性」にあるとする。
・Cultural Transparency(どこでどう使われるか?)――職人芸
・間違った技術観(仕様書―もんじゅの温度計)


戻る