その時、会議室で国際部の打ち合わせをしていた。「あっ、揺れている。」
 また、いつもの地震か。長く続く横揺れ。「遠いな」、しかし、揺れは予想に反して止まず、どんどん大きくなった。会議室を出る。事務所の棚ががたがたと 音を立て始めた。
 「大きいぞ!、でもすぐに収まるさ」(と、たかを括る)
 裏切られる、緊張が走る。経験を超えつつある。ますます、ぎしぎしと。棚が倒れた
事務所写真。しかし、揺れはますますしつこく強く。近くの細長いビルの屋上でアン テナが大きく揺れていた。「震度は、」との理事長の声に、片手を開く(5と言いたかった)。
 揺れの強さが一定になった。「ピークは超えた」。揺れは続くが、ゆっくりとおさまっていった。

 書類や棚を片付けようとするスタッフ。
 「よせ、余震がある。手はつけるな。もっと安全な場所に移ろう」と、思わず叫ぶ。
 6階から2階の出口へ。他の会社の人たちも黙々と階段を降りていた。

 外へ出た。携帯はもはや通じない。番号を入れたとたん、即拒否、「接続できません」と。しかし、PHSは通じた。借りたが所沢方面は無理。3年半前の中 越沖地震の経験から、メールを打ってみる。これは、メールは通じた。家へ、「どうですか?私は無事です」。「無事、被害もない」との返事。実は、メールは 様々なところに通じる。(後から聴いたが、東京近辺の子供・親戚の安否確認は携帯メールで済んだらしい)
 171がすぐには使えないことも分かった。話し中が続くのだ。

 もっとも、上記の通じたのは、まだメールを使うのが多くなかったからなのかもしれない。
 一旦事務所に戻る。
 (私)「M8は言ってるよな」
 (山)(インターネットを視ながら)「発表は7.9ですって」
 (私)「(何か小さいのではと感じたが)ほら8近いじゃないか」
  (その後、8.4→8.8→9.0と訂正)

 注意すべきこと。ホームページは必要なときの情報源にはならないということ。
 みんなが欲しいと思う情報は、ホームページでは無理。というのは集中してすぐにアクセス不能となる。東京の集中的人口規模にこの情報インフラは間に合ってはいない。

 すでに鉄道は止まっている。すぐには動かないだろう。腰を据えるしかない。約束した人と何ら連絡が付かない。やむなし。池袋から要町の間の道路の歩道は もくもくと歩く人たちで一杯、みんな家まで歩くのだろうか? 今日は泊まりだ。

 テレビで、津波の映像を見る。凄まじい。(しかし、その時の映像はまだ序の口のレベルだった。翌日から入ってくる映像は、津波10m!、 15m!!??、予測の余りの甘さに、自然への畏怖で鳥肌が立った。)

 池袋駅に行ったスタッフが7時ごろに戻ってきた。「駅は満杯、(事務所に)戻る途中のコンビニは、おにぎりやサンドはもうない。カップ麺もほとんどな い。これだけ。食べてないんでしょ、食べて!」と買ってきたアルミ鍋のスパゲッティにお湯を注いで食った。

 テレビとラジオの情報の質の違いは覚えておく必要がある。テレビは映像が手に入るため、被災地中心の報道、視ている人は受け身。ラジオは聴いている人向 けの情報。そんな放送の感じ。

 10時20分頃、JR以外の鉄道が運転再開し始めた。でも「肝心の」西武池袋線は再開が遅れている。待つしかない。動き始めたとしても集中して大混雑だ ろう、終夜運転はするだろう、まさか通常終電はすまい、暴動が起きる、その位なら、JRのように「運転しない」発表の方がまし。予測通り。
 その後、池袋線も運転再開したとのテレビのテロップ。しかし今は大混雑だろうから、しばらくして池袋駅に行こうと引き続き腰を据える。外を見ると帰宅者 の歩行の流れは急激に減った印象。

 JRが止まっていても帰ろうとチャレンジしたスタッフ(女性含む)も、6時間も寒風の中にいて、タクシーも見つからず、戻ってきた。体を温めるには ちょっと飲むしかないか。

 テレビを見たり、うつらうつらしたり、3時半になってしまった。帰ることにした。池袋までの道、外はもうほとんど歩いている人はいない。午前4時、池袋 駅は「集団ホームレス」状態、結構な人が疲れて通路の端に座り込んでいる。一方でまだ 動いていない東武とJRの改札前はお大勢の人が立って待っていた。西武は各駅停車飯能行きの電車が出るとのアナウンス。あわてて電車に乗る。出発は4時 半。乗った 時はパラパラであったが、出発する頃は立っている乗客も。

 50分かけて西所沢の駅に。空はほんの少しだけ白みがかり始めた。家まで15分、着いた頃には、結構周りは明るくなってきた。私の住んでいる三井団地 は、今までの思いとは裏腹に、何事も無かったかのように、土曜の朝を迎えようとしていた。

 興奮しているから、なかなか寝られない。結局缶ビールを飲んでそのまま起きていることに。