新田義貞の足跡<元弘3年(1333年)5月>

概略

  今から700年ほど前の元弘3年(1333年)5月、新田義貞32歳、鎌 倉の北条高時を討つために挙兵した。5月10日ごろ に所沢の小手指ケ原で北条軍と戦った。その後、久米川、分倍河原と戦をつづけ、5月16日には稲村ヶ崎 から鎌倉へとせめ入った。新 田義貞のこの決起については、群 馬県太田市のページにわかり易い説明があります
https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/manga-8.html

 また、福井県に新田義貞の墓所「称念寺」があります。称 念寺のHPhttp://shonenji.net/nitta/) で室町時代、江戸時代、明治時代の評価の変遷がわかります。

義貞決起、鎌倉までの足跡一覧

1333(元 弘3)年

新 田義貞の所在

動 向説明

合 戦名

義 貞史跡・所縁の地

1日 目

58

生 品神社~(笠懸野・中世東山道)~利根川(前橋市)~八幡荘(高崎市)で総結集

挙 兵


生 品神社(新田義貞公像&新田義貞公挙兵六百年記念碑)・上野國一社八幡宮

2日 目

59

八 幡荘(高崎市)~将軍沢郷(嵐山町)

移 動



3日 目

510

将 軍沢郷〜笛吹峠〜入間川

幕 府軍・新田軍、両陣、入間川で対峙


狭 山八幡神社(駒繋の松)

4日 目

511

入 間川~小手指原(所沢市)〜入間川

遭 遇戦、新田軍優勢のまま、決定的勝敗つかず、新田軍は入間川、幕府軍は久米川に退却

小 手指原の合戦

誓 詞橋、白旗塚、小手指原古戦場碑

5日 目

512

入 間川~久米川

陣 形戦、幕府軍(鶴翼の陣)、合戦で劣勢の幕府軍分倍河原へ退却

久 米川の合戦

勢 揃橋&将軍塚、鳩峯八幡神社(兜掛の松)、久米川古戦場碑

6日 目

513

久 米川

休 息



7日 目

514

久 米川

休 息



8日 目

515

久 米川~分倍河原(府中市)~関戸〜堀兼

北 条泰家軍10万を投入・新田軍堀兼まで25kmを 撤退

分 倍河原の合戦(1日 目)

山 口観音(誓いの桜&伝義貞祈願文)・椿峯(伝承)・堀兼神社

9日 目

516

堀 兼~分倍河原~関戸

新 田軍未明進軍、諜報戦、北条軍を破る

分 倍河原の合戦(2日 目)・関戸の合戦

分 倍河原古戦場碑・関戸古戦場跡標柱

10日 目

517

関 戸

逗 留



11日 目

518

関 戸〜(稲村ケ崎)

鎌 倉へ進軍(略)

稲 村ヶ崎合戦

稲 村ヶ崎古戦場跡 新 田義貞徒渉伝説地の碑

12日 目

519

以 下略