施政権返還前、「渡 航闘 争」という運動で沖縄へ

  生まれてはじめて沖縄の地に立ったのは、 1967年6月22日、 大学2年生19歳の夏、沖縄 と 本土との自由往来がままならない、アメリカ軍支配の下の時期であった。当時のアメリカ軍政府は、沖縄と本土の日本人の渡航を�不当に も�制限していた。本 土から渡沖するには特別の「身分証明書」または「渡航証明書」が必要であり、その上、申請してもその証明書はなかなか発行されなかった。沖縄県民の本土渡航も同様であっ た。当時の沖縄人民党委 員長瀬長亀次郎さんは 10数回にわたって本土への渡航が拒否されていた。
 東京で は、 学生 自治会や労働組合、平和団体等で、沖縄への渡航制限撤廃・自由往来実現の運動を行っていた。その時は沖縄那覇市での6.22集会に向 けての「渡航闘争」で あった。
「渡航闘争」の背景
  • 当時の沖縄渡航は内閣総理大臣の身分証明書が必要だった。パスポートではない。沖縄だけの個別の許可証(身分証明書)が必要だった。
  • 「観光」と理由を書けば身分証明書がすぐにでも発行されたが、政治的思惑と見做される理由ではなかなか発行されなかっ た。
  • ここに「沖縄県民との連帯のため」という理由で渡航申請する「渡航闘争」という運動が生まれた。当時本土からの申請に は5%の発行率。まぁ身分証明書獲得の運動だから私は行かないだろうとの予想で「申請」に参加。
  • たしか数十人が「申請」に参加した。結果、集会の前日(21日)、数名に証明書が発行されたようだった。「発行されたよ」と気楽に、 『誰か が行くのだろう(決まっているのだろう)』位の気持ちその日はいつもの通り寝る。
その後の経緯
  • 翌日22日、朝の10時頃、「岡安さん電話です」と駒場寮の寮母さんの放送。電話は『身分証明者が発行されようなので、学生団体代表 として那覇の集会に出て挨拶してきてくれ、チケットは取ってある。行けますか?』〜まぁスケジュールは何とでもなるので、OKの返事、 『では、昼過ぎまでに(何時だかは失念)羽田に行ってくれ、民放労連の人も一緒に行くからよろしく』とは、当時共産党の学対部長H氏の 言。
  • そんな都合よくチケットが取れるのかね、と首を傾げながら「出張」準備。2、3日の旅行なので何の泊まりの準備もなく(ここが学生寮 で生活していたルーズさ)、小さな鞄には全寮連の機関紙『緑の旗』を100部くらい放り込んだまま出立。羽田空港へ。確かに私の名前のチ ケットがありました。
  • この時の渡航は、「沖縄・小笠原返還、渡航制限撤廃、自由往来実現要求6・22沖縄県民集会」に参加するため。
余  談
  • 初めての渡航はJALの国際便。東南アジアのとこかに向かうフライトで、那覇は中継地だったと思う。機体は空の貴婦人と言われた DC-8。座席に座るとスチュワーデス(キャビン・アテンダント)の方から、「重量バランスが悪いので、前方のファーストクラスに行って 頂けますか?」とのリクエスト、別に断る理由もないので前方へ。食事も結構豪華でした。(内心ラッキー!)
  • 機内でいわゆる「入国カード」が渡された。日本からどこへ行くかを記入する欄があった。当然、日 本から日本へと記 入。闘いなんだからこんなもんだろうと思いながら。
  • 翌日(かどうか)、人民党の方から左ハンドルのスバル360(復帰5年前)で、南風原を通って摩文仁の丘(現・平和記念公園)、読谷 村の「象の檻」などを案内して頂いた。
  • 夕方は琉球大学の男子寮、女子寮を訪問した。大学はまだ首里城跡にあった。なにせ持っていった鞄の荷物は全寮連の機関紙だけだったの で、寮生も呆れていた(のではないだろうか)。
  • 瀬長亀次郎さんのお誘いを受けて瀬長さんの家を訪問した。家は刑務所の隣、しかも監視塔のそば。何故か監視塔は塀の外、「うちを監視 してんだよ(笑)」というのが妙に印象に残った。
  • 瀬長さんの家では泡盛を出され、コップ1杯で、しばらく爆睡してしまった。時効ですね。
集会に向けての署名活動
1967.06.22の集会に向けての事前宣伝と署名活動

 身分証明書
渡航のための身分証明書。目的は「親善訪問のため沖縄へ」となっている。

 当時の新聞記事
集会報道した当時の赤旗しんぶん記事(画 像クリックで拡大します